vol.26 先人の生きざまに学ぶ
金山 元春
今回は高齢期についてです。
高齢期になると体が若いころのようには動かなくなり、物忘れも多くなりがちです。仕事やいろいろな立場から引退し、子供は巣立ち、頻繁に会うこともなくなります。さらに、人生のパートナーや大切な仲間との別れも避けられません。こうした喪失感と向き合いながらも、自分が歩んできた人生に意味を見いだし、自分なりに納得した幕引きを迎えることが発達課題です。心理学では、これを〝統合性〟の課題といいます。
これまでの成人期に至る心の発達については、自らの経験を踏まえて語ることができましたが、高齢期に関しては、それがかないません。高齢期は、私にとって未体験だからです。
ただ、〝統合性〟のような大きな課題は、そのときになって何かをしたからといって達成できるようなものではない、ということは予想できます。だからこそ、高齢期に至り、自らの人生を振り返ったときに納得できるような日々を、いまこのときから歩み始める必要があると考えています。そのためには、日々の歩みを支える指針が必要となります。
そこで今回は、私にとっての「人生の指針」について記します。
私の家の信仰は、6代前の先祖が長男と共に親子そろって入信したことに始まります。このことから、私は「親子そろって」という姿勢を大切にしてきました。父とは些細なことから悩み事の相談まで、よく話をしました。父はいつも私の思いに丁寧に耳を傾け、そのうえで自分の思いを伝えてくれました。私は「父が言うのなら大丈夫」と、いつも安心と勇気をもらっていました。父は5年前に出直しましたが、その言葉はいまも私の人生の指針になっています。人生には迷いや不安が付きものですが、「父に守られている」という思いが、いまの私を支えてくれています。
過日、父の5年祭を勤めさせていただきました。記念に編んだ追悼文集には、父の人生が記されていました。困難な道中も多々あったようですが、それでも心を倒さずにやってこれたのは、父に確固たる信仰があったから、つまり〝神様のご守護〟を信じていたからであり、父のあの大きな存在感は、父自身が神様に守られていたからなのだと感慨深く納得できました。
このエッセーのテーマは「人と関わる知恵」ですが、多くの先人の生きざまを見たとき、人との関わりから生じる事情の中には、人間の知恵ではいかんともし難く、神様にお守りいただくしかないことがあると痛感します。これからも先人の生きざまに学びながら、徳積みの日々を歩みたいと心を新たにしています。
天理時報2020年3月8日号掲載