神様に応援してもらえるチームに -天理大学ラグビー部小松節夫監督-
「なぜ?と問い続ける育成」実る
「ラグビーには〝なるほど〟と思える理論と、感情を高ぶらせて相手に挑む姿勢、その二つが必要」
天理大学ラグビー部の低迷期にコーチとして指導に携わり、監督に就任して四半世紀。悲願の日本一をもたらした名将は、選手一人ひとりや自分自身に対しても、「なぜ?」と問い続けてきた__。
天理高校ラグビー部ではBKで活躍。3年時には主将を務め、高校日本代表にも選ばれた。
卒業後、先輩の勧めで、フランスへラグビー留学。強豪「ラシン・クラブ」で2年間プレーした。「全体練習は週に1、2回だけ。週末に必ず試合があったので、基本的に皆、自主練習に取り組んでいた。フランスでは、自分で考えることの大切さや自由な発想を学んだ」
帰国後、関西の雄・同志社大学ラグビー部へ。昭和59年度に大学選手権3連覇を達成したときは1年生。テレビの画面で、その偉業を見た。4年時には、同じ決勝の舞台で背番号「12」を背負って先発出場したが、早稲田大学との接戦の末、惜しくも敗れた。
その後、社会人リーグの日新製鋼に5年間在籍し、キャプテンも務めた。
選手を引退後、天理大の再建を託され、平成5年にコーチになった。
天理大の強さと輝きを取り戻す
当時、関西3部のCリーグに低迷していた。練習時間が近づいても、選手は部室でたばこを吸い、パンを食べ、テレビを見る。それが当たり前になっていた。
「当時の学生には、Aリーグ時代に入部した選手もいて、個々の能力は決して低くない。歴史あるチームとして、精神面の立て直しが必要だと感じた」
まずは地道なトレーニングとともに、ラグビーの面白さや、勝ちにこだわる向上心を養っていった。
チームは翌年、Bリーグへ昇格し、平成7年に監督就任。そのとき、「天理大の強さと輝きを取り戻す」べく、「Aリーグ復帰」「関西で優勝」「国立競技場の舞台へ」「創部初の日本一」の四つの目標を立てた。
ところが、Aリーグ昇格をかけた入れ替え戦での惜敗が続く。一時は「自分に〝勝ち運〟がないのでは」と悩み、本部神殿でぬかずくこともたびたび。
勝てない理由を探し続けた末、14年度、6度目の入れ替え戦で念願のAリーグ昇格を果たした。
ところが、Aリーグ復帰直後のシーズンは、初戦の同志社大に70点差で大敗すると、そのまま全敗でシーズン終了。「やはり体をつくらないと、どうしようもない」。もともと体の小さい選手が集まってくるチームカラーゆえ、生活リズムを整えてラグビーに集中できるよう、関東の強豪チームにならって寮の開設に奔走した。その後、15年4月にラグビー寮が開設されると、自ら舎監として家族で住み込んだ。
環境が整う中で、さまざまな苦労もあった。白川グラウンドにナイター設備が導入される前は、「投光器を運ぶために、方々に頼んで軽トラックを借りた。でも、下方しか照らせないので、高いボールは見えなくて」と、当時を振り返る。
また、寮では「妻が風邪をひいた選手を介抱したり、おかゆやうどんを作ったりと、家族のように関わり、夫婦でなんでも相談に乗った。妻も子供たちも嫌な顔一つせず、よく一緒に通ってくれたと思う」と述懐する。
目の前の課題を一つずつクリア
創部80周年を迎えた平成17年度、Aリーグ4位となり、21年ぶりに全国大会出場を果たしたが、1回戦敗退。21年度には準々決勝で強豪・東海大学(東京)に大差で敗れる。
試合後、相手監督に練習内容やチームづくりについて率直に尋ねた。「力のある選手が、それだけの練習をしていたら、そりゃ敵わない」。そう痛感した。
この大敗が、大学選手権常連校へと成長するターニングポイントになる。
新主将の立川直道選手(当時)は、チームの朝練習のメニューを独自に作成したほか、体を大きくするための食事のルールも自主的に考えて変更。そして、このシーズン、ついに35年ぶりの関西制覇を成し遂げる。
さらに翌23年度、チームの司令塔で主将の立川理道選手を主軸とする展開ラグビーで関西リーグ連覇。大学選手権では〝天理旋風〟を巻き起こし、創部初の準優勝に輝いた。
学生時代に小松監督の手ほどきを受けた、同部BKコーチの八ツ橋修身さん(46歳・北横濱分教会教人)は「小松監督はクールな人だという話をよく耳にするが、ラグビーに対する情熱、大学日本一への思いは人一倍強い。また、他競技の練習方法を取り入れたり、幅広い分野の本を読んだりと、考え方はとても柔軟」と、その人物像を語る。
初の準優勝を成し遂げると、漆黒のジャージーに憧れ、全国各地から入部希望者が集まってきた。24年には、ウエートルーム併設の寮が新たに提供され、全寮制となった。
選手一人ひとりの身体能力が向上していくなか、長年の課題だったスクラム強化にも本格着手。指導するのは、小松監督の高校時代の同級生、岡田明久コーチ(58歳・撫養大教会ようぼく)。先の決勝では、スクラムで大きく後れを取ったことから、攻撃的なスクラムを目指すようになった。「私がつい熱くなって練習時間が長引いても、小松監督はそばで黙って見ていてくれる。選手一人ひとりをしっかりと見ている様子に、感心することもしばしば」と岡田コーチ。
一昨年には、9連覇中の絶対王者・帝京大学をスクラムで圧倒して勝利。ところが決勝では、名門・明治大学に5点差で敗れ、2度目の準優勝に終わった。
「ここまで分析されるのか」。情報戦での負けだった。そこで、学生による新たな分析係を置いたほか、今シーズンは、課題であるラインアウト専門の分析班も設けた。
こうして3度目の〝日本一挑戦〟となった大学選手権決勝。例年よりも1日早く都内に入り、前日は会場視察。打てる手は、すべて打った。
迎えた本番。前年覇者の早稲田大学を相手に、選手一人ひとりが瞬時に状況を判断し、攻守にわたって先手を取った。そして、相手に一度もリードを許すことなく、大学選手権の決勝史上最多となる55得点をマーク。大学ラグビー界の頂点に初めて立った。
常に「なぜ?」と問いかけ、目の前の課題を一つひとつクリアし、監督就任26年目にしてつかんだ悲願の日本一だった。
「やっぱり、神様に応援してもらえるようなチームや個人でなければ、初優勝という結果には、つながらなかったと思う。目の前の課題や困難に対して、何をなすべきかを主体的に考えること。そして、日常のあらゆる場面で自らを正し、責任を持ち、人から信頼されるように通る。それこそが、神様に『勝たせてやりたい』と思ってもらえるチームであり、個人なんだと思う」
天理時報2021年1月24日号 掲載
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