宗教から見た世界 再考「宗教リテラシー」
島田 勝巳

このコラムを始めてから、13年ほどになる。
「宗教」に関する情報を〝クリティカルに〟読み解く能力としての「宗教リテラシー」をキーワードに、グローバル化する現代世界の背後にある宗教的要因について考えるというのが、そもそもの趣旨であった。
本来、リテラシーとは「識字能力」を意味する。20年ほど前から、これがカタカナ表記のままで、〝与えられた情報を批判的に読み解く力〟といった広い意味で用いられるようになった。「宗教リテラシー」について言えば、日本では1995年の地下鉄サリン事件、世界では2001年の米国同時多発テロが、社会的にもそうした関心を高める大きな転機となった。
この動向をさらに後押ししたのが〝ネット社会化〟の流れである。世界で起きる事象について、今ではネット上で簡単に情報を入手できる。リテラシーの意義は、そうした情報が果たして信頼できるものか否かを判断するための能力を身につけることにあったはずだ。
だが、そもそも、特定の事象についての的確な判断をするための情報それ自体を、私たちは一体どこから入手すべきなのか? ネット社会化によって生まれたのは、こうした潜在的な〝情報の無限連鎖〟という問題であった。
一方で、そもそも「判断」とは、そうした連鎖を〝断ち切る〟ことにほかならない。つまり、情報の過多に戸惑う直前で、私たちは自分が信頼したい情報源に頼るほかないのだ。それを最もよく示すのが、米国の先のトランプ政権から生まれた〝ポスト・トゥルース(脱真実)〟なる標語だろう。
だが、情報、つまりは「知識」が、つまるところは「信」に依拠しているというこの構造は、実は情報やリテラシーにのみ関わる問題ではない。「知」とはそもそも、それ自体が「信」に依拠せざるを得ないというこの性格を、決して逃れることはできないのだ。
では「宗教リテラシー」は、もとより敗北の運命にあったのだろうか? おそらく、そうではないだろう。一定水準のリテラシーの先には、その〝深化〟が待ち受けているはずである。
むしろ、より的確に言えば、私たち自身が、そのように歩み続けていかねばならないのではないだろうか。
天理時報2020年3月28日号掲載