JOYOUSLIFE ー あなたが陽気に 世界を陽気に

ヒューマン

「馬にもう一度チャンスを」
名調教師の新たな挑戦

角居勝彦
JRA調教師 一般財団法人「ホースコミュニティ」代表

すきっと30角居さん

「スポーツ・オブ・キングス(王たちのスポーツ)」とも呼ばれる競馬。賞金額数億円のレースも珍しくない華やかな世界にあって、「馬を救いたい」と訴えている人がいる。角居勝彦さん。JRA(日本中央競馬会)の調教師として五度の年間最多賞金獲得に輝いた現役の名調教師だ。〝競走馬の福祉〟の視点で競馬の未来を考える角居さんを、取材した。

「それでは、表彰式を執り行います」
 兵庫県宝塚市の阪神競馬場。大歓声に包まれたレースを終え、優勝馬を囲んでの記念撮影が行われる。まだ鼻息の荒いサラブレッドの横に、角居さんの姿はあった。
 この日は自身の厩舎から三頭がGⅡレースに出場。そのうちの一頭が、大外から鋭く先行馬をかわし、見事に初勝利を挙げた。角居さんは、まだ汗がにじむ馬の首をポン、ポンと、ねぎらうように叩いた.

消えていく馬たち

 いま、競馬が〝再ブーム〟だ。バブル崩壊後に落ち込んだ馬券の売り上げは2012年以降、5年連続で前年比を上回り、一時は業績が大幅に悪化した各地の競馬場には、カップルや子供連れの姿も目立つ。
 最近では「UMAJO(うまじょ=馬好きの女性)」なる言葉も登場。「近くで見ると意外とかわいい」「ジョッキーの○○さんがイケメン」。カメラを手にした若い女性ファンからは、そんな声も聞かれる。
「競馬の人気が高まっていることは、とてもありがたいことですよ。馬について、もっと多くの人に知ってもらいたい。競馬ファンだけでなく、小さな子供から高齢者、障害のある方まで、どんな方でも。それがきっと、馬を救うことになる」
 角居さんはそう話す。「救う」とは、どういうことだろうか。
 日本で生まれるサラブレッドの数は、年間約7000頭。その寿命は、およそ25年から30年とされる。しかし競馬界では、ほとんどのサラブレッドが4歳から8歳で引退する。中央競馬の場合、3歳馬は夏までに勝利を収めなければJRAには残れない。
 また、レースで活躍したとしても、繁殖用として産駒(子孫)を残せるのは、牝馬では数百頭に一頭。牡馬の場合、「種牡馬」になれるのは2000頭から3000頭に1頭だ。
 では、その他の馬はどこへ――。

競走馬が直面する淘汰

 岡山県吉備中央町。この日、取材の場所として角居さんが指定したのは、岡山空港から一時間ほどの場所にある「岡山乗馬倶楽部」だ。
「おはようございます。場所、すぐに分かりましたか?」
子供っぽく笑う顔は素朴で、勝負の世界に身を置く人のようには見えない。角居厩舎のチームカラー、グリーンのキャップをかぶって出迎えてくれた。
 空に近づいたように感じる広大な吉備高原。標高400メートルほどの場所にあるこの乗馬倶楽部が、いま角居さんの第2の仕事場になっているという。
 2013年、「ホースコミュニティ」という団体を立ち上げた。引退した競走馬の生きる道づくりをする組織だ。
 引退馬は多くの場合、乗馬用に転用される。ところが、国内の乗馬人口はヨーロッパなどに比べて非常に少なく、乗馬クラブの数も限られている。転用先で怪我をしたり、気性が荒く乗馬に不向きと判断されたりした場合は、「ほとんどの馬が廃用、つまり食肉や飼料として処理されているんです」と角居さんは説明する。
 また、別の乗馬クラブに引き取られるなどした場合、その後の管理を誰がしているのか、あるいは廃用とされたのか、JRAの調教師でも追跡することは難しく、まったく把握できないという。
 ホースコミュニティが推し進めている事業「サンクスホースプロジェクト」(次ページコラム参照)では、乗馬や競技馬術をはじめとするスポーツ、生涯教育、医療など、引退馬がさまざまな場所で〝新たな役割り〟を得て生きていけるよう、セカンドキャリアの構築・管理を行っている。
 その中心的な役割を担っているのが岡山乗馬倶楽部。引退馬を積極的に引き受け、第二の〝馬生〟を歩むためのリトレーニング(再調教)を続けている。
 飼育されている約60頭のうち、10数頭が角居さんの厩舎などに在籍した〝元競走馬〟だ。

生きる道を与えてやりたい

「ちょうど、数日前に来たばかりの子がいるんですよ」。同倶楽部を経営する西崎純郎さんが、角居さんと共に厩舎を案内してくれた。
「ブルル……」
 明るく掃除の行き届いた厩舎の中で、鼻を鳴らす馬の顔を、角居さんは友人と握手するかのように撫でた。
 名前は「テイクオングレース」。父は「ダート最強」と言われ大活躍した「クロフネ」。産駒として期待されたが、3戦ゼロ勝に終わり、引退。3日前にここへ来たばかりだという。
「引退と言っても、人間でいえばまだ子供。目を見てみて。『信用していいんだろうか』っていう目をしてるでしょ」
 馬房の壁には、暴れて蹴破った穴が開いている。角居さんは、濃い灰色の首筋に両手を当てた。
「筋肉が硬いね。馬は筋肉の塊みたいな動物だから、緊張すると全身がぐっと固まる。それだけで大きなストレスになるんです。この子もいま、苦しがっている」
 説明の間も、馬は落ち着かなげにこちらを見ている。「ここに来られなければ、ひょっとすると肉になっていたかもしれない。この子のような馬の生きる道も、僕らが考えてやらなきゃ、かわいそうじゃないですか」。角居さんは、つぶやくようにそう言った。

すきっと30角居さん

ここに来られなければ、
どうなっていたか分からない。
この子のような馬の生きる道も、
僕らが考えてやらなきゃ、かわいそうじゃないですか。

競馬界の暗黙の了解

 石川県生まれ。天理教を信仰する家庭に育った。高校卒業後、「親元を離れて、何か技術を身に付けたい」と北海道静内町の牧場へ。当時は「JRAの存在も知らなかった」という。86年、中尾謙太郎厩舎の調教助手となり、97年からは松田国英厩舎へ。その後独立し、2001年、栗東に自身の厩舎を開業した。
 牧場での下積み時代、胸に刻んだことがある。
 まだ1歳半ほどの仔馬が、放牧地で穴に足を取られて骨折した。
「競走馬は無理。たったそれだけのことで、淘汰されていく」。割り切れない思いを手紙にしたため、高校時代の友人に書き送った。
「そんなにかわいそうな仕事なら、辞めたほうがいい」。返信には、そう書いてあった。
「だけど、馬を救うのもこの仕事。勝たせることが救うことになる」
 そう心に誓い、馬と向き合ってきた。
 開業後わずか3年で、「デルタブルース」で菊花賞(GI)を制覇。翌年には「シーザリオ」でアメリカンオークスに遠征し、日本調教馬初となる米GI優勝を成し遂げた。2007年、64年ぶりに牝馬で日本ダービーを制した「ウオッカ」は、競馬ファンでなくても、その名を知る人は多い。
 輝かしい戦績の一方で、勝てなかった馬、怪我に泣く馬を数え切れないほど目にしてきた。
「肉になるだろう」――。調教師、騎手、厩務員。誰も言葉にはしないが、そこには暗黙の了解があった。皆で愛情を込めて育て、共に闘ってきた仲間。「なんとかしてやりたいのは、皆同じだったと思う」。それでも、何かアクションを起こすには「調教師として勝ち星をしっかり挙げられる、そういう発言をしていい立場まで上がらないと」。それが大前提だった、と角居さんは振り返る。
 2008年、精神的な治療に馬を活用する「ホースセラピー」の存在を知った。障害児が馬に乗ることで自信や満足感を得、不安や多動を軽減する。「馬に癒やされ、人を癒やせる人になる」――。競走馬の新たな生きる道を見つけた。
 2011年、「サンクスホースプロジェクト」の前身となるイベント「サンクスホースデイズ」を開催。武豊さんや福永祐一さんといった名ジョッキーをはじめ、同じ調教師や各地の馬主など、多くの賛同者を得た。
「コンセプトは、馬を使ったコミュニティーづくりです。乗馬だけではなく教育や医療、福祉、介護にも、馬は活用できる。サラブレッドは『高価』『危ない』というイメージがあるでしょう? まずは、そんなイメージを崩したいんです。たくさんの人に馬を身近に感じてもらうことで、馬の生きる道が広がる」

人との歴史を遡る時間

 厩舎の中を歩いていると、どの馬も人懐っこく、こちらに首を伸ばしてくる。自身も馬術の選手として長年馬と過ごしてきた西崎さんが、「『もう速く走らなくていいんだ』『人と仲良くすると楽しい』と分かると、だんだん馬の顔つきも穏やかになっていくんですよ」と説明してくれた。
「馬は元来優しい動物で、人と一緒に居たいという感覚を生まれたときから持っている。だから人と馬とは、古くから自然に共生してこれたんです」。そう角居さんが言葉を継いだ。
「それを僕らが、速く走る、闘争心が高まる血統をかけ合わせ調教して、DNAに刻みつけてきた。そこから先祖が持っていた本来の性格まで、ここで時間をかけて戻してやらないといけない。人と馬との歴史を遡っていく時間が必要なんです」
 ホースセラピーは、そんな馬たちと過ごすことが心理療法になることに着目したもので、精神・身体機能を向上させるリハビリテーションの一つだ。
「人間と比べれば、馬のほうが圧倒的に大きいですよね。向こうが信頼してくれなければ、50キロ程度の人間なんて簡単に振り落とせる。人間の側で絶対的な支配ができないからこそ、相手を理解しようという感情の交流が必要になります。餌をやったり馬房を掃除したり、馬とパートナーになること、そこで得られる信頼感や安心感が、大きなセラピーになる。私も本当に驚くほど、みなさんの表情が変わりますよ」
 近年、虐待を受けた子供の心のケアや受刑者の更生など、ホースセラピーは活用の幅を広げている。そこでは、馬は速く走る必要はない。怪我をした馬、馬齢を重ねて人を乗せられない馬にも、新たな〝活躍の場〟ができる。
「馬を救いたい」――。名調教師のそんな思いが、多くの人を巻き込んで、いま、日本に根づきつつある。

馬は必ず返してくれる

 厩舎近くの馬場では、鹿毛のサラブレッドが馬術競技用のハードルを軽やかに飛び越えていた。吹き抜ける秋の風が、人と馬を押し上げているかのようだ。
 この「ドリーム・ハート」も元競走馬。怖がりな性格でゲートに入ることができず、「資質なし」と判断され、ここへ来たという。ところが、バーに触れることを嫌う性格が馬術に幸いし、いまでは西崎さんのパートナーとして全国大会で優勝するほどの実力を発揮している。
 乗馬、医療、教育……。サンクスホースプロジェクトがセカンドキャリアに結びつけた馬は、30頭を超える。


 有史以来、移動や農作業など、人の生活に馬はなくてはならない存在だった。それらは近代以降、車やトラクターに取って替わられた。「でも」と角居さんは言う。
「感情のやりとりは、神様によって造られた生き物にしかできない。ロボットの馬に乗っても、おそらくなんの効果もない。そう考えれば、馬が人間を助ける場面は、まだまだあると思う。馬を使って人が喜ぶ顔を見ることができるのなら、それが自分の役割だと思う」
 角居さんは、厩舎のスタッフにいつもこう伝えている。
「決して、馬を怒るな」と。
「このレースに勝ちたいといくら思っても、同じ生き物なのだから、思うようにいかないことはある。それは、こちらの思いが足りなかったということ。馬は、思いをかけた分だけ、必ず返してくれる。だから、たとえうまくいかなかったとしても、チャンスを与えてやりたい。何度でも、です」
『すきっと』vol.31(2017年12月1日発売)掲載

すきっと30角居さん

西崎さん(写真右)は、現役の馬術選手としても活躍している

すきっと30角居さん

標高400メートルの高原にある岡山乗馬倶楽部。静かで爽やかな秋の風が吹きわたる

すきっと30角居さん

高台の厩舎から人懐っこく顔を出す馬たち。角居さんはリトレーニングの様子を見守る

すきっと30角居さん

壁には蹴破った穴。「この子は、目が少し中心に寄っているでしょ? 性格も肉食獣っぽいというか、人の言うことを聞きたがらないのが顔に出てる」

すきっと30角居さん

日本固有種の「道産子」。角居さんと西崎さんがいま描いている活用法の一つが、〝災害救助馬〟だ。「災害時に、土砂や瓦礫の下に人が埋まっている可能性のある場所、障害物がある場所では、重機やトラックは進めない。そんなとき、馬が人の代わりに要救助者や救援物資、資材を運べると思うんです。特に『道産子』は日本の気候にも適している。馬は決して、前時代の乗り物じゃないんですよ」

COLUMN
サンクスホースプロジェクト
 一般財団法人「ホースコミュニティ」(角居勝彦・代表理事)が発起人となり2016年にスタートしたプロジェクト。
 馬主や調教師、各地の乗馬クラブや牧場が協力する形で、引退後の競走馬のリトレーニング(再調教)、セカンドキャリアの構築、その管理・運営をサポートしている。
 リトレーニングを監修する団体の一つ、NPO法人「吉備高原サラブリトレーニング」(代表=西崎純郎・岡山乗馬倶楽部代表取締役)は、このプロジェクトのパートナーとして引退馬を受け入れ、約6カ月間訓練したうえで、引退馬と新たな活躍の場のマッチングを行っている。
「サンクスホースプロジェクト」公式HP

「吉備高原サラブリトレーニング」公式Facebook

同NPO法人では、活動に対する支援を「ふるさと納税」の形でも募っている。→こちら

すきっとvol.30 特集 Be Ambitious掲載


【すみい・かつひこ】1964年、石川県生まれ。調教助手、厩務員を経て、2000年、調教師の資格を取得。「デルタブルース」でGI初制覇。これまでに「ウオッカ」をはじめ、「カネヒキリ」「ヴィクトワールピサ」「エピファネイア」「キセキ」など、多くのGI馬・名馬を育てる。通算652勝(2017年10月現在)。最多勝利調教師賞3回、最多勝金獲得調教師賞5回獲得。




1