音にのせる心-幸せへの四重奏vol.6-
元渕 舞

演奏していると、音楽を通じて聴衆と親しく会話をしているような感覚になる。自分たちが長い時間をかけて仕上げ、大切にしてきた曲を聴いてもらい、その時間を共有できることがとてもうれしく、これが自分の仕事だなんて、いまだに信じられない思いだ。
私の所属するボロメーオ弦楽四重奏団は、現代曲を演奏する機会も多い。作曲家が私たちのために曲を書いてくれるのだが、初演を終えても、そのあと数回の改訂が加えられる。作曲家が頭の中で描いていた音を実際に聴いてみると、アイデアが変わるのはよくあることで、それは音楽が生きている証拠だと思う。
作曲家に聞いてみたら、書くのに2年半かかったが、まだ完成していないという。
ベートーベンもそうだった。何回も書き換え、ページを破り、また書いた。こうでもない、ああでもないと、書き変えられた手書きの楽譜を見ると、何が何だか分からないくらいめちゃくちゃだ。
しかし、作曲家のそうした努力も、演奏者が表現しないと聴衆には伝わらない。紙の上だけの芸術で終わってしまうのだ。演奏者は作曲家の努力を無駄にしないためにも、全力を尽くさねばならない。
学生時代、先生方に「一番大切なのは『なぜ?』と思うことだ」とよく言われた。いま、その意味がよく分かる。楽譜を読むとき、ここはなぜこう書かれているのか、ここが前と違うのはなぜかと自分に問いかけ、納得できるまで考えることで、理解がより深まるのだ。
そしてその理解は、時とともに進化する。たとえば音楽用語のドルチェ(dolce)の意味は甘く、やさしく。でも私は、母親になって、ようやくドルチェを理解したように思う。ドルチェを見ると娘たちを思い出し、無性に会いたくなる。その感情が音にも出るのが自分でも分かる。
演奏者は、曲がいつ、どのような境遇で書かれたのかを知らなければならない。同じ音でも、時代と境遇によっては全く違った意味を持つからだ。作曲家のその時の心を深く読み取りながら、言葉では表せない感情を音にのせる。その意味で、演奏者は俳優と同じような仕事だと思う。
演奏者は、譜面に一音ずつ書かれたその先を読みつつ、作曲家がこの曲を書こうと思った時点に立ち、自分の目線を作曲家のそれに置き換えて演奏する。成功も失敗もすべて受けとめ、演奏者の人生経験が豊かであればあるほど、作曲家の思いに近づけるのだろう。
天理時報2017年11月5日号掲載