宗教から見た世界 米大使館エルサレム移転問題をめぐって
島田 勝巳

5月14日の「イスラエル建国の日」に合わせ、米国は、在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムへ移転した。
これは昨年のトランプ大統領の宣言を実行に移したもので、これによって彼は、先の大統領選での公約の一つを実現した形になった。
各種メディアで報じられているように、今回の大使館移転は、今秋に控える中間選挙を意識したトランプ氏による、支持者層へのアピールにほかならない。
もちろんこれは、一方の立場である。
他方のパレスチナ側にとって、この日は70年前のイスラエル建国によって多くの人々が故郷を追われ、難民となった「ナクバ(大惨事)」と呼ばれる日である。
当日のニュースでは、娘のイヴァンカ・トランプ氏と、敬虔なユダヤ教徒である夫のクシュナー氏が浮かべる満面の笑みと、パレスチナ側の4万人の抗議活動に表れた人々の怒りの表情とが対照的に映し出されていた。
このときの衝突でパレスチナ人50人以上が死亡し、負傷者は2700人にも上ったという。この〝非対称性〟にこそ、「パレスチナ問題」の根深さが表れているとも言えよう。
ある宗教的な理想が、政治的関心によって利用される姿を、世界はこれまで何度も目撃してきた。
とはいえ、今回の移転問題ほど、その利用のあり方が露骨な例は稀だろう。
だが一方で、イスラエルや米国内のキリスト教福音派が、臆面もなくトランプ氏の決断を歓迎する姿から見えてくるのは、宗教が政治によって利用される事態とは逆の、宗教が政治を積極的に利用しようとする姿勢である。
このとき、自らの理想の実現を追求する宗教的な動機づけの、場合によっては盲目的とも言える性格と、政治が本質的に含み持つ党派的な性格は、共に手を携える形になる。このように政治と宗教は、往々にして一種の〝共犯関係〟を成す場合がある。
だが、いわば、そうしたあまりにも人間的な姿勢それ自体を省みる視点も、やはり宗教的な理念や理想から引き出され得るものではないだろうか。
宗教が持つこうした可能性を現実の世界に反映させるのも、結局のところは、弛むことなき人間的な努力によるほかはないように思われる。
天理時報2018年5月27日号掲載