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First Episode「元をたずねて、明日を拓く」

三濱 靖和本部青年(当時)


人をたすける

 天理教は何のためにあるのだろうか。人をたすけるためである。どのようにすれば、人はたすかるのだろうか。教祖は、自分のたすかったことを人さんに真剣に話させていただくのだ、と教えられている。
 そこで、まず、わが家がたすけられたお話をさせてもらいたい。その多くは、まだ私が〈Happist〉読者と同じ年齢のころ、すなわち高校生あるいは大学生だったころ、祖父から聞かせてもらった話である。今から20年以上前のことで、聞き間違いや覚え違いがあるかもしれないことをお断りしておく。

明日の地図ひろげて 三濱1

一夜の間に

 わが家の入信は、私から見て三代前、曽祖父・三濱信(のぶ)三郎(さぶろう)にさかのぼる。今から100年程前の明治末年ごろのことである。場所は、おぢばから数キロ南西へ行った所にある蔵(くら)堂(んど)という集落である。
 信三郎は相次ぐ家族の問題で心を痛めていた。とりわけ娘、富士子(ふじこ)が足を病んで床に伏していた。ある時、病床の富士子が足の痛みに耐えかねて言った。「テンリンさんを呼んでんか」 
 明治20年以後、天理教は燎原(りょうげん)の火のごとく広まっていた。記録によれば、蔵堂では古くから増田(ますだ)忠(ちゅう)八(はち)という人が布教していた。信三郎の妻ウノが増田家を訪ねていったところ、城(しき)法(のり)分教会(現大教会)から一人の先生がおたすけに来てくださった。
 信三郎は夜を徹して親神様のお話を聞かせてもらった。明け方、富士子が自分で歩いてお手洗いに立った。それを見た信三郎は、夜が明けると仏間を取り払った。一夜の間に天理教へ改宗したのである。

道一条の心を定めた中学生

そして、息子善一(ぜんいち)が旧制天理中学校へ入学をする。善一は中学生の時に生涯この道一条で通るという心を定めた。しかし、善一の通った道は決して平たんなものではなかった。将来を嘱望された叔父は、病に倒れ、失意のままに亡くなっている。別の叔父も、前途洋々たる未来を思いながら亡くなっている。また、親せきの理解があったわけでもない。
 善一が青年づとめをしていたころの逸話が残っている。大八車(リヤカー)を引きながら教会のご用を終えて、村へ帰ったところ、母親に出会った。母親は善一の姿を見て言った。「善一や、おまえに天理教を信仰するな、とは言わん。だけれども、その格好では家へ来てくれるな」と。
 そういう道中を、「素直に聞き、正直に行いたい」をモットーとして、先を楽しみに「結構や、ありがたい」という喜びづくめの心で通った。その結果どうであったか。晩年は、子ども夫婦10人、孫15人に囲まれていた。その善一が語っていた言葉がある。「子ども、孫に至るまで、誰一人として身上や事情で苦しんでいる者がない。こんな結構なことはない。これは、なろうと思ってなれるものではないのやで」

明日の地図ひろげて 三濱2

偉大な同級生

 ところで、善一祖父が中学生にして道一条を定め、生涯喜びづくめの心で通ることができたのは、一人の同級生の存在が非常に大きかったのではないか、と私は思う。 
実は、祖父は天理中学校に入学したものの1年生を落第している。病気で試験が受けられなかったためである。そしてその翌年、天理中学校へ天理教二代真柱・中山正善様が、ご入学なされた。期せずして、真柱様と学友にならせていただいたのである。もちろん、私たちが同級生と聞いて思い浮かべるような気安い間柄では決してなかったと思う。しかし、常に真柱様と身近に接することにより、そのお人柄に感化され、導かれていったのではないか、と思う。 
 また、二代真柱様が、海外布教に従事すべき者を養成する目的で天理外国語学校(天理大学の前身)を創設された時には、第一期生として入学した。これがその後、子・孫に至るまで海外布教に微力ながらも携わり、世界たすけの一端を担わせていただいている元でもある。誠にありがたいことである。
(つづく)

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