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Final Episode「元をたずねて、明日を拓く」

三濱靖和本部青年(当時)


 目の前には、数時間前に生まれたばかりのわが子がいた。どこが身体か分からないほどに、無数のチューブがつながれていた。医師からは、良くなる見込みはない、と言われた。しかし、その小さな身体は、生きるために懸命に頑張っているように見えた。思わず医師に言った。「私は天理教なんです。天理教のお祈りをさせてください」
 おさづけを取り次がせていただき、病院を後にした。外は雪空のように曇っていた。
明日の地図ひろげて 三濱1

親にもたれる

 その晩、夕づとめ後に本部詰所でおふでさきを拝読した。
  いかほどにせつない事がありてもな
  をやがふんばるしよちしていよ (十五 8)
 まるで教祖が自分に語り掛けてくださっているような気がした。
 その翌朝は教祖殿の当番だった。朝のまなびは、九下り目と十下り目だった。
  ふじゆうなきやうにしてやらう
  かみのこゝろにもたれつけ (九下り目 二ツ)
 親心あふれるお歌である。そして、朝づとめ後に拝読したおふでさきは、偶然にも、前日の夕づとめ後に本部詰所で拝読したお歌とまったく同じだった。
  いかほどにせつない事がありてもな
  をやがふんばるしよちしていよ (十五 8)
 どんなに困難があっても、親である親神様にもたれていれば、しっかりと抱きかかえて連れて通ってやるよ、と教祖がおっしゃっているようだった。

不思議な声

 数日後、教祖殿の結界前で参拝をしている時にも不思議なことが起きた。「お前は不思議なたすけを見たことがないと言っていたやないか。これから不思議なたすけをしてみせるで」という声が聞こえてきたのだ。客観的に考えれば、それは心の中にあるさまざまな交錯する思いや願望の一つが聞こえてきただけなのかもしれない。しかし、その時は、その声が結界の奥、教祖のお社辺りから聞こえてきたような気がした。 
 果たして、わが子は奇跡的な回復をした。
 2週間後の2月25日夜。学生担当委員会のご用を終えてから、妻と2人で橿原のNICUに向かった。約束の時間を大幅に遅れてしまったが、主治医は笑顔で迎えてくれた。長い説明後、最後にこう言った。 
「どこにも異常は見られません。これからは普通に生活をしてください。なぜ良くなったのか分かりません。奇跡です」
明日の地図ひろげて 三濱2

信じるから見える

「なぜ良くなったのか分からない」という主治医の言葉に全てが集約されている。医師には見えないもの、あるいは医師という立場上、言えない存在がある。それは、「ねがうこゝろの誠から、見えるりやく」。つまり、神様である。ここに至るまでには、まだ会ったこともない赤ちゃんのために、親神様・教祖にお願いをしてくれた数多くの人がいた。それらの人々の真心を受けて、おさづけを取り次がせていただいたところに、鮮やかなお働きをお見せいただいたのではなかろうか。
 信仰とは、単に見えないものを信じることではない。信じるからこそ見えてくるのである。三女の誕生とそれにまつわる一連の出来事によって、今まで見えなかったことが見えてきた。それは、「当たり前のことがとてもありがたい」ということである。「治らない」と言われたものが「治る」ということだけがご守護ではない。それ以上に大きなご守護がある。主治医の言葉をつなげば、「普通に生活する」ことは「奇跡」である。息をする、首が据わる、寝返りを打つ。その他、発達上の課題を「普通に」乗り越えていく様子は、まさに奇跡の連続である。「普通」「当たり前」。
 これ以上に大きなご守護があるだろうか。最近、三女が口ずさんでいる歌がある。
  よろこびを 探してみよう
  ほらここにある 元気に なれるから   (『よろこびいっぱい! さあ ひのきしん』)
 身の回りにあるご守護に気付き、それをありがたく思える心になる。そして、ありがたい、うれしい、ということがたくさん見えてくる。それが、陽気ぐらしではないだろうか。
(おわり)

Happist

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