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宗教から見た世界 フランスと〝われわれ〟の行方

島田 勝巳天理大学宗教学科教授

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4月23日に行われたフランス大統領選挙で、超党派のエマニュエル・マクロン氏が首位に立ち、極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首が2位につけた。いずれの得票数も過半数を下回ったため、両者は5月7日の決選投票に進むことになった。
昨年の英国におけるEU(欧州連合)離脱の決定や米国のトランプ政権誕生を背景に、今回のフランス大統領選でも、ポピュリズム(大衆迎合主義)や排外主義の高まりに世界的な関心が集まった。選挙戦の主要な争点はEUとの関係や移民政策にあったが、決選投票では親EU派のマクロン氏と、反EU・移民排斥を掲げるルペン氏という対照的な二人の戦いになる。
マクロン氏は今回の勝利演説で、「私はナショナリスト(nationaliste)の脅威に対抗する愛国者(patriote)の大統領になりたい」と語った。もちろんこれは、ルペン氏の「自国第一」主義を意識した発言だが、EU統合の意義を唱えるマクロン氏が、なぜあえて「愛国者」であることを自認するのだろうか。彼が自認する「パトリオット」と、逆にルペン氏に重ねる「ナショナリスト」とは、何が違うのだろうか。
おそらく〝パドリ〟という語に、そのヒントがあると思う。パトリとは近代的な「国家」(state)ではなく、「祖国」を意味する語だ。そしてそこには、ある集団や共同体が一定の歴史的・地理的環境を共有するという含意がある。
したがって「パトリオット」とは、端的には関係性の密度、つまり「われわれ」として包摂可能な共同性を表す言葉なのである。マクロン氏は、「ナショナリスト」には国家のための国民という含みを持たせる一方で、自らは「パトリオット」への呼びかけを図ることで、逆に「われわれ」の結束を図ろうとしたのではないだろうか。
問題は、この場合の「パトリオット」、つまり「われわれ」の範囲をどこまで広げるかということだろう。
よく知られるように、フランスには18世紀末のフランス革命に由来する「自由・平等・博愛(友愛)」という理念がある。これをマクロン氏の呼びかけに引き付ければ、彼はEUに対し、ルペン氏のように〝閉じる〟のではなく、むしろ〝開く〟方向にフランスの未来を賭けている。その彼にとって、この理念はイスラム教徒や移民・難民に対しても拡張されていくべきものだろう。だが、果たしてそれが現実的にどこまで可能だろうか。
さらに言えば、翻ってこの問いは、現代に生きるすべての人々に突きつけられた難問でもあると言えるのではないだろうか。
決選投票の行方に注目したい。

天理時報2017年4月30日号掲載